1950-03-28 第7回国会 衆議院 本会議 第31号
明治二十四年十一月、熊本第五高等学校に転じ、三年の後、神戸クロニクルの記者となり、二十九年九月には、東京帝大文字部講師として再び教壇に立ち、明治三十六年三月まで勤続、翌三十七年四月、早稻田大学講師となり、その年九月二十六日の夕刻、突然狭心症をもつて沒し、雑司ケ谷共同墓地に葬られたのであります。
明治二十四年十一月、熊本第五高等学校に転じ、三年の後、神戸クロニクルの記者となり、二十九年九月には、東京帝大文字部講師として再び教壇に立ち、明治三十六年三月まで勤続、翌三十七年四月、早稻田大学講師となり、その年九月二十六日の夕刻、突然狭心症をもつて沒し、雑司ケ谷共同墓地に葬られたのであります。
——なければ、次に早稻田大学講師風早八十二君にお願いいたします。
公述人としては第一日、六月十八日は学識者として金原賢之助君、慶應大学教授、風早八十二君早稻田大学講師、金融関係から千金良宗三郎君、三菱銀行取締会長、中小商工業の側から中島英信君、全日本中小工業協議会の役員、農業関係として日本農民組合から大森眞一郎君、地方財政としては、生田和平君、町村長会長、婦人代表として小松愛子君、家庭学園園長、労働組合側から山田有三君、産別会議財政部長、河野平治君、労働総同盟主事
すなわち、まず東京大学名誉教授、学士院会員、文学博士原田淑人君は、総論として國庫補助の請願趣旨を敷衍し、次に各論として、同じく東京大学助教授、文学博士駒井和愛君は、登呂遺跡の考古学的意義を明らかにし、また同大学教授、工学博士關野克君は、登呂遺跡発掘調査の計画を述べ、終りに、早稻田大学講師、農学博士小野武夫君は、遺跡発掘と農地の問題に言及せられたのでありましたが、その眞劍さは襟を正さしめるものがあり、